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ねぶた伝説

 kaijou.jpgよく「ねぶたの由来は?」と聞かれる。
一番頭が痛い質問だ。青森では「ねぶた」,弘前では「ねぷた」というから,ますますその答えに困ってしまう。
 ねぶたの由来については,さまざまな説があって,定説がない。

 

一番ポピュラーな坂上田村麻呂伝説

 西暦800年代に,朝廷の命令に従わなかった奥州のエゾを,坂上田村麻呂が征夷大将軍として討伐にやってきた。
 朝廷の強大な武力を示して,鎮圧,降伏させるためであった。
 この時,地理的に不案内の地では勝負が長引くとみた田村麻呂が,数万のタイマツに火をつけ,大きな灯篭を作り,太鼓屋増え,鐘などを鳴らしエゾたちをおびきよせようとしたのである。
 この派手な楽器や灯篭に,数理四方からエゾたちはゾロゾロと集まり,たちまちのうちに捕まえられてしまった。
 この話しは,元禄15年(1702)に長利惣太夫が書いたいわれる熊野奥照神社に伝わる伝説に書かれており,田村麻呂のこの作戦が後にねぶたになったのではないかとされている。
 しかし,史実からというと田村麻呂は盛岡までした北上していなく,この津軽までは着ていない。
 この説はあくまでも伝説であって,最近までこの伝説が由来として紹介されてきた。

 

津軽為信公の大灯篭伝説

neputa.jpgのサムネール画像 文禄2年(1593)津軽為信公が京都釜ノ座のお座敷にとう留していた時のこと,7月のうら盆のお国自慢に,重臣服部長門守康成に奇想天外な大灯篭を作らせ,京の町を練り歩かせた。
 この大灯篭は日ごろ「田舎ざむらい」といわれていたのを大いに面目をほどこしたのである。
 しかし,この記述がある「旧藩勝手方旧記」には,津軽の大灯篭。ということばは使われていても,ねぶたという文字は見当たらない。
 その後,城下町で初めてネプタを出した記録は正徳3年(1713)で,「ねふた」といった。
 さらに亨保7年(1722)には,弘前の親方町,鍛冶町,土手町,元寺町,和徳町,紺屋町などからネプタが合同運行されている。
 それ以来ネプタは弘前名物となり,弘前の他に県内各地で運行されるようになったという。 文禄2年(1593)津軽為信公が京都釜ノ座のお座敷にとう留していた時のこと,7月のうら盆のお国自慢に,重臣服部長門守康成に奇想天外な大灯篭を作らせ,京の町を練り歩かせた。

 

 

民俗行事としてのねむり流し伝説

miokuri.jpgのサムネール画像 今日一般に使われているネブタ(侫武多)の文字が記録上にあらわれたのは明治5年であって,それまでは「ねふた」「弥むた」「ねぷた」「子ムタ」「ネムタ流し」など23種類もある。
 七夕祭りにまつわる民俗行事としての「ねむり流し」との説もある。青森には藩政時代以前から,7月になると子供たちが2mから3mくらいのサオに,灯篭をつるして,"七夕祭"と書き,上に小ザサやススキを束ねて,「ねぶたコ流れろ,まめのはさとっつぱれ」とはやしたてながら村を練り歩く行事があった。
 これは「眠気よ流れてしまえ,マメの葉に乗った睡魔よ去ってしまえ」という意味で大人たちが笛や太鼓ではやすのである。こうしてこの時期にありがちな眠気を払うのである。
 津軽弁で「眠い」ということを「ねんぶて」というが,これが訛って「ねぶた」というようになったのではという説もある。


 

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